【南の覇者】H
伊東義祐、執念の決算!
南日本の覇権をめぐり
意地と根性の総攻撃

 芋柄木刀(1)
子供の頃は里の小道に蝶やとんぼを追い、やがて青雲の志を抱き翔躍したつもりが、光陰矢の如く、気がつくと人生峠を過ぎて、 振り返ると瓦礫の山が累積している。
幸せなるか伊東義祐は今尚、覇者の夢を追いその真っ只中に在った。
豊州忠親との凌ぎを削る飫肥攻防は昨年の室町幕府の仲介も朝廷禁裏植家の説諭も何ら効果がなかったようです。
飫肥城に嶋津忠平が養子に来ていました。
『太刀の下切り取る飫肥の本城に、一度逃げて又四郎とや』(飫肥紀行)
飫肥紀行は義祐の著作といわれています、又四郎は忠平、のちの義弘の事です。
永録四年(1561)春、大隅州崎の肝属省釣兼続の私宅で、嶋津氏との連携を深めるための花見の宴が行われていました。
貴久の実父日新斉忠良の長女、阿南は兼続に嫁ぎ、貴久と兼続は義兄弟になります。 宴も進み、酒もまわった頃、貴久臣、伊集院大和守忠朗が、省釣臣薬丸出雲守兼持に酌をしながら・・。
「大隅海の磯料理には大変馳走になり申したが、ただ鶴の吸物がないのが残念にてござった」
出雲守の碗をもつ手がわなわなと震え酒が零れた、呂律の乱れた口調で言い返した。
「それは相済まぬ、されど次は貴殿方に招かれる番なれば、狐汁を忘れあるな」
大和守の神経質な顔に血筋が浮きスックと立ち上がると小太刀を抜き、張り巡らされた慢幕の鶴の首を切り裂いた。
向い鶴は肝属の紋章で、狐は嶋津の守護神です。貴久の宥めもきかず、怒った省釣は本拠高山城に帰ると反嶋津の檄をとばし、 根占重長、伊知地重興を誘い貴久の廻城(福山町)を攻め落としてしまいました。 貴久も長男義辰(義久)弟(忠将)同尚久を動員して大崎に出陣馬立陣を竹原山に構え、飫肥の忠親も救援のため鹿児島に出張しました。
一方、肝属の要請で伊東義祐は鎌ケ倉(吉の方)陣をとり<忠親の補給路を絶つことになりました。
そうしているうちに肝属の使者が鎌ケ倉の伊東陣にきて、 
「竹原山を押し崩し右馬助政久を打ち取った」
と知らせてきたのです。
鎌ケ倉陣に歓声があがり、そのことを飫肥城の忠平に伝えて降伏を迫った。
慌てた忠親は酒谷まで帰ったが鎌ケ倉を通れず本城にもどれません。
鹿児島に相談したら「勝手に和談せよ」との返事。忠親臣、日置周防介忠充は鎌ケ倉を訪ねて和を乞うた。
「私儀、取りあえず宮藪(内城の一つ)を開城致し申すによって伊東殿も陣を退き給え、主君を帰城させた後、 本城の引渡しの段取りを講じ仕る」。
鎌ケ倉に出陣して未だ一戦もせぬうち義祐は内城の一つを入手しました。
油と水、はからずも馴染みえぬ両軍が呉越同舟することとなりました、さすがにその夜は甲冑をきて着て寝たといいます。
その後和談が成立して、忠親は飫肥を義祐に開城して福島 に(串間市)移つり、忠平は養子を解消して鹿児島に帰りました。
日置忠充は和談を労した功により、南郷に所領を貰っていましたが、それを諾としない伊東兵はいいがかりをつけたり、
「夜討ちがある」と噂をながすなどして串間の忠親のもとに追ってしまいました。
忠充は無念さに夜も眠れず、寺社に詣でて伊東打倒を調伏などしていましたが、ある夜、夢枕に亡父が現れて策を授け、 日置は柏原宮内小輔、深見主人正、種田大膳等三十六人衆と語らい、 伊東兵交代で手薄の日を選んで勝手知った井戸端から奇襲して飫肥を奪回した。 余勢をかって楠原から酒谷城も攻め、木脇越前がかけつけた時は既に敵の手にあり、虚しく引き上げた。
飫肥、酒谷は再び嶋津の手にわたり、貴久は大いに喜んだ。
片や半年も経たぬ間に飫肥を奪われた義祐は、その後も執拗に攻勢をかけ、五年がすぎました。  
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