【南の覇者】G

伊勢備後守貞孝
足利幕府の仲介、
決戦は引分け
中島田の水(4)
永禄三年(1560)秋、京都から伊勢備後守貞孝が下向して、先ず都於郡に義祐を訪ねました。 牧雲斉貞孝は一通りの経過を述べた後から、小串壱岐守の”番弓笠掛け日記”を見せて欲しいと所望しました。義祐は、それに付け加えて言上する。
「尊氏公御代の時に祖大和守氏祐が日向へ下り、武家方に加勢凶徒を退治し息信濃守祐基をして日向奥の安堵を請願申した。
その後、東山滋照院義政公御代の時、高祖父祐尭名代として小串下野守京に在り、
『嶋津、澁谷を除く日薩隅三州の輩は凡て伊東の家人たるべし』との御教書を賜り申した。 今、陸奥守がそれを疎んじて、先には折角和成るところを東郷に放火、押し寄せ申した。此の旨、陸奥守に厳しく戒めくだされ」。 それから牧雲斉は鹿児島末吉に貴久を訪ね。貴久の側近の居並ぶ中で、先ず貞孝が
「当地に参る途中、三位に会って来たが、飫肥と庄内(都城)に伊東の所領が在るというそれに放火狼藉に及ぶとはいかなる存念か?
若し、飫肥がいさかいの種となるようであれば、以後は幕府の直轄とするがいかに」
貴久が一堂を見回して答える。
「はて?伊東の所領とは初耳でござる、それに鬼ケ城は出火にて豊州が消火の手伝いに出張ったのに矢を射掛け申したと聞いてござる」
「六郎殿は戦好きで飫肥かと思うと庄内、又真幸と止まる事なく、殊に飫肥は縁戚新納殿から我が父が継承してござる」 と忠親息北郷時久がつけ加える、貞孝執事川合某が”笠掛日記”をとり出して。
「陸奥殿の望みにより、遠路京師から罷り越したは童の使いにあらず、飫肥庄内の事はこれにても明白なり」。
今度は、貴久執事樺山幸久が反論します、
「日薩隅三州守護は、健久三年始祖忠久公が武衛助頼朝公より任ぜられ、 末だその条文の改廃をしらず、時に工藤犬房(祐時)の地領は都於郡のみでござった。証しの書なら当方にも幾多ござる程に、今持参つかまつる」 そういって座をたつ幸久を制して貴久がいう。 「
待て待て、兎や角理屈を申しても詮ない事、我等は争いは好まぬ。ご覧あれ、日頃はこの様に裃を着て暮らしてござる。 もし六郎さえ静かに致してくれるなら、飫肥はおかみに返上するも止むを得ぬ。豊州には然かと説得仕る」
『相解った。なればその旨、三位に伝えて、若し聞きいれ申さずば、西国諸候に命じて征伐するであろう』。〓(日向国史)
要談がすみ、牧雲斉貞孝は貴久の馳走を受けて機嫌良く鹿児島を去りました。 後でその話を聞いた義祐は。
「阿呆んだら!飫肥や真幸や庄内を荒らしたと?儂しをモグラにしおって健仁三年、比企の乱に連座した罪により忠久は執権北条に守護を剥奪されているわ。
つべこべ申さば押っ盗るまでよ。西国諸侯が何んぼのもんじや、皆纏めて疂んでくれるわ」
覇欲も真っ盛り四十八歳、胸の中に熱い血潮が湧いてきた。
この和談はその後、何の沙汰も無く消え伏せたが、それもその筈、この主役伊勢牧雲斉は、帰郷して間もなく、山城国杉坂で松永久秀のために誅殺されてしまった。次いで三好長慶が死んで松永霜台は将軍義輝さえもその毒牙にかけた柾に下克上風靡の時代であつた。
日南市大字板敷、山川から原の迫に至る道すがら。矢作師S氏(県伝統工芸士)の邸宅が在る。四半的の兢具を製して久しい。
その木戸先、田上八幡神社の地底より湧き出る聖水は、幾層もの白砂に濾過を重ねて水晶のように透いて輝く。今柄杓を手にして、顔に近ずけると、
「どうじや、美味かろうが」
威厳ある武者の声、ハツ!と振り返ると、馬手(右手)に御神酒の焼酒を持った白鬢初老の温厚そうな笑顔があった。    
芋柄木刀