【南の覇者】E
本城攻防戦
島津義弘参戦
鞭声粛粛
中島田の水(2)
『 鞭声粛粛、夜河を渡る』
頼山陽の詩で有名な信州川中島に魁る事五年。
弘治元年(1555)、暮れも余す所十日足らず、酒谷の河面にオリオンの三っ星が流れて人馬の脛を洗う細波は凍るように冷たかった。 井手尾(堰尾)新山を下りた伊東軍は、夜陰に紛れて河を渡り、対岸の下河原に布陣しました。
中の尾を出た別動隊は伊東相州以下敵城を遠回りして、飛ケ峰の尾根を辿り観音坂から板敷へ、佐土原筑後守祐章は精鋭を率いて糺森を抜けて城の搦手西山寺に急行しました。
東雲が仄かに白らみ、明けの残星が二っ三っ、気の早い一番鶏が啼いています、西山寺隊は法螺の合図で、本城目掛けて一斉に火矢を放ちます、矢は彗星のように、橙色の孤を描いて谷を越えていきます。
鹿児島から百キロ余り、強行軍の疲れで忠平は熟睡していましたが、夢が正夢となり、現実兵達が右往左往している。慌てて支度すると促されるままに不動馬場に集りました。 忠平以下応援組は搦手側の攻防を受持ち、上原将監が案内役として加わり。忠平は半数を連れて、後宮門八幡馬場から打つて出ました。
八幡筋の間道は巨木の枝が両面に競りだし昼間でも薄暗い、途中微かな灯かりは崖崩れで白砂が露出しているから、 突然視界が開けると今度は山川が道を阻み、兵達はその両岸の葉竹を払って北へ進みます。
目的は永源寺{長持寺}西山寺に対する好位置だ、上原率いる小隊は御倉の瀬戸を抜け谷の口へ、 永源寺には近道でありますが道幅が狭く大軍は 通れなません、一方相州祐染は板敷道を南下していました。 永源寺に誘った敵を挾撃する作戦である一丈二尺・五幅、月星紋の旗は、
昔、元祖祐経公が鎌倉殿の媒酌で總州千葉介常胤殿に御婿入りされし折の由緒ある引き出物。 他にも亀甲、梅鉢、釘抜と族に伝わる指し物、馬印。 或いは字とも絵とも解せぬ紋様を晒に墨書きして、胴着丈の者、兜丈の者、雜兵達が騎馬の後から小走りに従うさまは、 さながら金魚の糞か。腕につけた黄色の端布は敵味方識別の章です。 固く閉ざした民家の庭も畑も我が物顔に踏み荒らし、中島田に至る。
中島田は火山灰の丘が点在して周囲は湿地帶ですが、現在は丘の殆どが均されて新興住宅が建っています。
作戦の狂いは戦場の常で、思わぬ所で敵味方が鉢合わせしました。両軍は百メートルほど間を空けて動きを止めます、場所が限られ鶴翼(かくよく)、 魚鱗などの陣立てが取れる地形ではありません、
赤地に白狐(びゃっこ)を染め抜いた稲荷大明神の大幟(おおのぼり)、 緋錦(ひにしき)張絹(ちょうきん)の直垂(ひたれ)の上に派手な瑠璃紫(るりむらさき)を綾(あや)に縅(おど)した鎧(よろい)を着て、烏黒(うろ)五寸背の馬に丸に十の字、黄覆輪(きぷくりん)の鞍(くら)かける見慣れぬ小童(こわっぱ)が、又四郎忠平。 その隣の矢筈(やはず)の紋は梶原藤七兵衛とその郎党。 次いで奈良原、市来いずれも音に聞こえた薩将達。 少し離れて最右翼、鷹の切斑三枚羽根拭箆造り二十四本挿さした箙(えびら)を頭高に背負い、重籘(しげとう)二人張りを構える良か二才(にせ)は、 先の二重木戸の合戦で必発必中の矢を放ち伊東兵を退却させた弓の名手、春成兵庫介助七であります。 嶋津左兵衛佐忠平が大きな声で下知しました。 「本日の軍に敵の首は持ち帰るな、毎々名乗るも無用なり。予て申しの通り五人組にて掛るべし、手柄は鹿児島へのみやげとせよ」。 相手陣の表情まで良く見えます、どの顔もひきつり目は血走っています。伊東方から一騎進んで、 「やーや、我こそ 本日の太刀始めに候」。 突然、「ズドーン!」銃声一発、馬上の若者がもんどりうって転落しました。 伊東相州が顔を真っ 赤にして怒鳴りました。 「おのれ卑怯な、武門の礼も弁えぬ恥知らず、この上は一人も余すな。者どもかかれや」。
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