【南の覇者】D

厳島で毛利元就が
覇権を握ったころ
南九州では伊東義祐が
飫肥を攻め捲っていた
中島田の水(1)
天運晦冥予知するを得ず、儚くも人は権に奔しり欲に沒する。されど大宇宙の營みから一歩も脱するを能わず、只その業を歴史に語るは、些やかなる供養となるべきや。
飫肥城嶋津忠親の救援要請を受けて、嶋津大守陸奥守貴久は、次男又四郎忠平に奈良原長門守、梶原籐七兵衛、市来与八郎を介添えにつけて、三千の大軍を飫肥に派遣しました。
嶋津忠平二十一歳、未だ少年の面影を残すこの若者は、後年、秀吉の命で朝鮮に渡たり、普州泗川の戦いで、 薫一元の率いる二十万の明朝連合軍を破って、翌朝、敵の首を集めて梟首しました。 その数実に三万級、大陸兵から鬼石曼子と恐れられた薩摩歴代随一の猛将です、
夜半、飫肥に着いた薩軍は、搦手長吉口から入城すると、城代上原式部少輔将監が出迎えました。奈良原長門守が開口一番。
「新山は攻めるに難く守るに易しと聞いてござったが、何で敵を頂上まで登らせたのか合点が参らぬ。 まして水の手を奪われるなど、一つは将の方便と器量にござろうか」。
上原将監は内心ムッとしましたが、そこは城代を勤めるほどの人物、表情には出さずに
「もっとも軍は方便と器量によるものなれど、敵は数で捲くり上げて策を労する閑もなかったと聞いてござる」
「いかに捲くるとも膝の上までは登るまい」。
横から梶原が言って、皆がドウツと笑いました。
「まあ、話は後にして冠り物を取り草鞋を脱ぎ給え、お供衆は宮藪で休息召されよ」
 同じ頃、東郷鬼ケ城では、伊東義祐が首脳を集めて軍議 を凝らしていました。
「伊東相州申しけるは、先月四日に新山を落として以来五十日、敵城に矢の一本も射ざる事浅まじき次第に候」。〓(日向記)
義祐が焼き芋を口にして答えると。
「もっともなるが、先の軍で味方の負傷も二千を越えた、せめて木脇越前の手が治るまで待つてはどうか」。
「それがしの事は御懸念下さるな、手傷の多いのは敵方も同じ。時を移せば薩摩からの援軍が来て難儀となり申す」。
 暫し意見の後に義祐が命じました。
「ならば善は急ぐべし、各自持ち場に帰り、早速支度にかかれ」。  
時、すでに薩摩の援軍が到着していましたが、遠旅の疲れで飫肥方も油断していました。
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