【南の覇者】C

薩摩岩剣城の戦い、
山田二郎三郎、
盛りきり飯御免。

南への道(4)


島津と伊東の代表は、東郷鬼ケ城の下に桟敷きを構えて話し合い、東郷のうち三百町を伊東にゆづることで和談が成立しました。
つい先頃、中の尾で大勝し、断然優位のはずの島津方からなぜ和談を持ち出す必要があったのか、島津の本家鹿児島をのぞいて見ましょう。
相撲の意趣を中の尾に晴らした伊集院忠朗は、薩摩清水に帰ると、大隅の肝付兼演(きもつきかねひろ)が、加治木で謀反しましたので、忠朗は菱刈隆秋を連れて、討伐にむかうことになりました。 まもなく兼演は貴久に降りましたが、所領加治木を再び肝付に安堵したのが菱刈氏の反感を買い、 今度は、隆秋が蒲生範清(がもうのりきよ)のもとに走り、北原兼守、渋谷党と連合して貴久を攻めはじめました。慌てた貴久は総力をあげてそれにあたります。
長男修理大夫義辰(義久)を蒲生城に 向かわせ、本隊は祁答院良重の守る帖佐城を攻めることになりました。 その途中、白銀山の 麓に岩剣城があります、貴久は次男又四郎忠平(義弘)に攻めさせたましたが守りは堅く、敵は奇策を弄してなかなか落城しません。
貴久の弟右馬守政久、左馬守尚久は、舟を仕立てて、別府川をさかのぼり、鉄砲十挺をもって、城塁から岩を落とそうと下を覗ていた敵七人を倒しました。
島津史に見る鉄砲初使用であります。日向史では3年前、南郷目井城を攻めたときに使用しています。
この銃が天文12年種子島に渡来したとされる洋式のものか、または、従来からあったと伝えられる大陸式のものなのか知る由もありませんが、 銃の威力が見直された武田対織田氏の長篠合戦より10年も前のことであります。
政久は夜中に兵を伏せて夜明けとともに城門に放火突入して、岩剣城を攻め落としました。
加治木の肝付氏をせめていた蒲生軍は、岩剣城が危ないと聞き、急ぎ反転し忠平の背後を衝きましたが、
星が原の本陣から貴久がかけつけ、それを救いました。本家の窮状に貴久は、飫肥の忠親にも伊東氏と和睦させて救援を要請したのです。
天文23年(1555)は、近年にない平穏なお正月でした、蹴鞠(けまり)、犬追物(いぬおい)、番弓(ばんきゅう)、一通りの恒例の行事を終えると、家臣たちは自宅に帰り家族とともに団欒な正月を迎えました。
しかし、戦国時代の平和が長く続くはずがありません。
その年の暮、東郷鬼ケ城が焼け、島津勢が押し掛けて開城を迫ったのです。和はたちまち破れ、怒った義祐は直ちに兵を召集して破竹の勢いで南下、例により水の尾、鬼ケ城、中の尾を奪回すると再び井手尾に進出して、飫肥方新山陣と相対しました。
飫肥本城より脱走者が井手尾の伊東陣に立ち寄りました、飫肥豊州家に北郷忠親が養子にきたのが不服だというのです。家督相続は何らかの波紋を投じるのは昔も今も変わりません 。 仲の良かった兄弟が、親の残した財産を狙って貪欲な争奪戦を演じます、可愛い我が子のために必死になって蓄積した遺産を、労せずして奪うために、恥も外聞もなく争う兄弟を何度も見てきました。 天国からそんな息子達の姿を見ている親御さんはどん思いでしょうか。
「新山の弱点は水の手でござる。」
坊主憎ければの例え、彼は水源の所在地まで告げて去りました。井手尾守将伊東加賀守祐安は、直ちに配下をやって水源を押さえ、新山に降伏の勧告をしましたが、新山城将、知覧大和守忠幸がそれを拒否すると、翌朝総攻撃を開始したのです。
山田二郎三郎匡徳は、出陣に際して盛り切り飯を膳に伏せ、小刀で真二つに切って、亀沢豊前の首だ、と息巻いて茶碗の端をかじり出ていったといいます。行ケ野の西を探している時、一際目立つ鎧武者を見つけました。相手も山田を見つけると、互いに有名な武将であります、双方駆け寄り名乗り合って、斬り合うこと二度三度、不覚にも山田が山芋の堀穴に落ちてしまいました。
「あいや待たれい、豊州に誉れも高き豊前殿、身動きかなわぬ穴虫を討ったとて、手柄にはならず武者が嘆くと申すもの、まずはお手を拝借候え」
亀沢は苦笑いして山田を引き上げ、両者は再び刀をあわせたましたが、年功も技量も豊前の方に利があるようです。山田はじりじりと押され、もはやこれまでというところ、今度は亀沢が木の切り株につまずきドーツと倒れました。二郎三郎はすかさず豊前を押さえ付けて、
「このまま掛け合えぱどうも儂の方に分がない、先程儂を引き上げられたが御身の不運、ともかくも命あっての名誉でござる。」  
辺りを見ても人影がない、小刀を抜いて、盛り切り飯後免。
佐土原式部大夫、島津方鶴田 安芸守に馬乗りになり首を盗ろうとしますが、相手も剛の者、首を縮めて小刀の先 に噛み付き刃先を一寸ほど噛み切ったといいます。しかし、すでにに二刀 ほどあびせていたので、鶴田が弱ってきました。髪を掴み頭を引き上げて、
「このスッポン野郎!」
その外知覧忠幸、北郷久信、伊知地美作守等百五十余が討ち取られ難攻の新山はついに落ちました。伊東方も宮田丹波守、宇垣小二郎他戦死しました。宇垣小二郎は元島津郷の原の守将でありましたが、城とともに伊東方に降った人です。 忠親に着任早々一敗地にまみれ、前線基地をうしなった飫肥城は今や風前のともしび。 忠親は急遽本家島津貴久に救援を要請しました。貴久は次男又四郎忠平(義弘)を飫肥に発進させ、いよいよ本格的な飫肥攻防戦がはじまるのであリます。
台風十号は今、大隅半島の南30キロにあり、北北東に進んでいる。油津港で瞬間風速50メートルが記録された。なもなく日南地方は暴風圏に突入する
【中島田の水へ続く】