【南の覇者】B

中央政権足利幕府と 伊東氏のかかわり、 激動する日本と南九州、 豊後の大友氏

南への道(3)


ちょうどその頃、京都では前将軍、万松院足利義晴が死んで、 義祐は弔問(ちょうもん)のためにわかに上京しました。
将軍義輝は事情があって、細川晴元と一緒に、近江の六角氏のもとに、行っていましたが、天文20年3月14日、京都の将軍政所執事、伊勢備後守貞孝の屋敷で、朝から終日酒宴が催されていました。
今日は遠来の客があるといいます、そのメンバーをみると、阿波の細川の重臣、三好築前守長慶、その臣松 永弾正忠久秀、細川晴元の政敵細川氏綱、珠光流茶人の武野紹鴎、将軍相伴役進土賢光 、いずれの顔も一癖二癖ありげなめ面相をしていました。
その後、三好長慶は近江から義輝を連れもどすと、形ばかりの将軍に押したてて、氏綱を官領とし、松永弾正を所司代に、自分は相伴衆となり、織田信長が上洛するまでの間、中央の政権をわが意の侭に、牛耳ったのであります。遠来の客が誰であったかはわかりませんが、当時伊東義祐が中央と、如何にかかわったか、古文書を例に考察して見ます。

公方の儀。御字‘義の事、
望み申される旨
披露せしめ候処。  
御意を得なされ候。
誠に目出度く候。
御面目これに
如くべからず候。 
早々に御礼申さるるべく候。
尚、神五郎(三好長政)
に申すべく候。 
天文六年八月二十三日          
晴元(細川)     
伊東六郎殿               

御官途の儀。
お申しの処、
大膳大夫に任じられ候。
口宣御拝領  
殊に御内書なされ候、
御面目の至りこれに
過ぐべからず候。     
よって御礼のため
太刀一腰。“国吉”
青銅五百疋御進上の旨、
ご披露致し候。
もともと以て珍重に候。
  恐々謹言。  
天文六年九月五日 
伊勢貞孝      
伊東大膳大夫殿              

今度要害の儀、
申し使わし候。
馳走せしめし由、
もっとも神妙に候。
依って一代の事、
相判(御側用人)に
召し加え候。
委細は桜本坊に
申し含め、尚、
藤孝(細川幽斎)に申すべく候。             
天文十七年二月八日 
直判(義輝)    
  三位入道殿                 

さて、義祐が上京してる間、飫肥では、島津忠広が病死しました。忠広に子はなくて、都城の北郷忠相の子、忠親が養子として後を継ぐことになりました。
そこで忠親は、豊後大分の大友宗麟(そうりん)に、伊東氏との和睦斡旋を依頼しました。
ここで、大友氏のお家事情について説明します。
当時大友家では後継問題がこじれて、左衛門義鎮(宗麟)派の家臣たちが、父修理大夫義鑑の館を急襲して、義鑑と側室、その子を惨殺する、築前琵琶で語られる“大友二階崩れ”事件があって、 義鎮が大友氏を継ぎ、菊地、少弐の勢力を吸収して、また周防山口の大内義隆の臣、 陶(すえ)晴賢に主家を裏切らせ、弟の義長を大内氏の後継としていました。
かって中央の覇権を細川氏と競い、遣明船勘合符に、日本国王の代印を押した応仁の雄、大内氏を大友の傀儡としてしまったのです。
しかし、その三年後には、陶氏も大内義長も毛利氏に亡ぼされる運命にあります。
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