【南の覇者】A
戦国首とり相撲
飛ケ峰の惨敗
中の尾供養塔
南への道(2)

長倉の乱を契機に、飫肥に進攻を開始してから、数年間のうちに義祐は、鵜戸(うど)、郷の原(ごうのばる)、目井津(めいつ)、 東光寺(とこじ)、隈谷(くまや)と、飫肥の支城を、つぎつぎに攻略して、中の尾、鬼が城まで進出し、今や飫肥の本城目前の、 井手尾峰に陣をかまえて、島津方の新山(にいやま)陣と対峙していました。
天文18年(1549)3月3日、敵新山砦から使者が来て、
「今日は節句でござる、一日休戦といたし、双方から代表を出して相撲などいたそうと思うがいかがでござろうか」
連日の激闘で、兵達にも厭戦ムードがみられるこの頃、それも面白かろうと、いうことになリました。
「先ずは当方中馬武蔵を出しもうす」・・と谷の彼方から呼び掛けて来ます。
中馬武蔵といえば噂に高い大力無双とのことで、こちらにも槍や刀をもたせれば、武勇の将士はたくさんいますが、相撲では勝手が違います、それに突然のことであり人選に迷いました。
「荒武兵庫殿はいかがでござろうや」
「いや、拙者は駄目だ、正月の奉納相撲でも河野殿に負けてござるわ」
あれこれ悶着しましたが、約束の時間もせまり、やむなく荒武兵庫守歓久が、代表に選ばれました。
彼岸桜が満開で、野山は浅黄(あさぎ)とピンクに色分けされ、あちこちでウグイスが、ホーホッケキョと、のどかに鳴いていました。 両陣の代表は小具足(こぐそく)に白鉢巻き、小太刀を帯び、たすきがけで、谷間に降りていきました。その様子を敵も味方も木に登って見物しています、
以下日向記から引用します。
『双方小太刀を抜きて、声をかけしばらくは瞋(いか)りて立たりしが、たがいに太刀を打ち棄てて、所も険難(けんなん)の谷あいなれば、上になり、下になり、谷を下りて、真逆様に転びしが、歓久いつのまにか起き上がり、中馬武蔵を押し伏せたり、両陣の敵味方荒武歓久みごとなり、と褒美する。 また誰れぞや言ったりけん、首を取れとぞ申しける。歓久、後の勝負が如何とぞ思われり、武蔵の首を掻き落とし、急ぎ陣にぞ引き返す。心ある者は情けなやと言うも、若き人々はいやいや賢(かしこ)しとて、太刀長刀の鞘を叩いてどよめきけり。新山にや、武蔵を討たれたること、無念に思いけるか、静まりかえって音もせず』。
相撲は数あるスポーツの中で、もっともフェアーな競技と定評がありますが、戦国時代の相撲現在のレスリング似た格闘技であったのでしょう、まして昨日まで命を賭けて争っている敵が相手では、日頃の恨みが噴出します。最近でもサッカーの試合で、フアンが乱闘し流血を見ました。 理屈はともあれ、負かした相手の首を盗るなど言語道断、賛同できるものではありません。 忠広はその無念さを本家鹿児島の島津陸奥守貴久(しまずたかひさ)に注進いたしました。
ちょうどその頃、鹿児島湾に中国船がきてポルトガルの宣教師フランシスコ・サビエルの弟子が上陸していて、嶺首、島津貴久は珍客の接待や外交に、繁忙でありましたが、伊集院大和守忠朗に命じて飫肥に応援に行かせました。
翌月、折からの濃霧を利用して、忠広、忠朗に都城の北郷忠親の援軍を加えて中の尾の伊東陣を急襲したのです。
東の空を赤く染めた火の手、雄叫(おたけび)の声、新山陣のただならぬ動きを見て、中の尾の異変を知った井手尾兵は山を駈け下り業間が辻(日南市今町)で島津軍と応戦しましたが、時すでに遅く、中の尾の伊東軍は壊滅した後でした。
日南市飛が峰の山頂近くに、島津氏が供養に建立したという五輪墓があります、それには伊東治部小輔、稲津四郎左衛門、落合安房守等戦死者の銘があり。碑は舟形光背で、中央に地蔵尊が陽刻されていますが、その表現法が、室町前期から後期に至る過度期のもので、国の史蹟文化財に指定されています。
中の尾陣で、将60を含む三百余名を失った伊東義祐は、全軍を宮崎以北に撤退させました。
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