【南の覇者】R
秀吉のもとに勲功をたてた祐兵は、
日向飫肥に領地を貰い
徳川三百年をはさんで
現在まで続いた。
  夢の跡 (4)
翌14年、嶋津に追われた大友宗麟が多くの土産を持って豊臣秀吉に縋ってきました。 大横領人秀吉は大友を助ける名目で、仙石秀久、長宗我部元親、十河存保を先発させます。 追っつけ本隊が来るまでは軽率な行動を慎むように命じられていましたが「たかが嶋津の田舎武者、 殿下が御着岸されるまでに決着を付けて置こう」と、戸次川(大野川)を渡り、嶋津家久陣に突進しました。 「芋兵児(いもへこ)共が逃げるぞ、追え!追え」今や家久陣の目前まで迫ったとき。 「餌に喰いついたぞ、それ引き掛けろ!」 嶋津お得意の釣野伏せにまんまとはまりました。両サイドから鉄砲を一斉に浴びせられ、地の中からムクムクと伏兵が湧いて出てきます。 かって木崎原で伊東の鮪を釣り、小丸川では豊後の鯛、有明海で竜造寺の鮃を掛けた、それに懲りずに今日は四国の鰹の大漁です。 気をよくした嶋津軍はのちに太閤軍も釣野伏せを仕掛けますがそれは後の話。 十河存保、長宗我部信親(元親息)を討たれて四国勢は命からがら逃げ帰ります。後に仙石権兵衛は責任をとらされ改易されます。  権兵衛秀久の臣、野呂伝兵衛は秀吉の書を持って義久を 訪ねました、前にも少し触れたが、大日本野史に。 『義久、書を地に投じて曰く、胡猿奴(こぞめ)何ぞ不遜なる。わが先君、忠久公、此処に国せしより十六代。歳を経る事四百年。 王事を戒める者は近衛公あるのみとて、使者を捕らえて撃錮する』とあります。  野呂伝兵衛は打ち首と決まり、先ず風呂に入れられました。 「こんな所で殺されてはたまらんわい」 恰好など構ってはおられません。風呂番を蹴り倒すと一目散に走りだしました。 本邦初のストリーキング、若い女性ならともかく、余物が付いているだけに頂けません。 しかし、名前に似ず野呂(のろ)の速いこと、あれよあれよと、薩摩ポが呆気に取られている間に、はるか彼方へと見えなくなっつてしまいました。 「義久奴、儂の書をホゴにしおって、その上使者を斬ろうとは何たる奴か、もうかんべんできねえ」 豊臣秀吉は、兵三十万、馬二万頭分一年間の兵糧を兵庫、尼崎に積み上げると、 天正十五年25万の大軍を七手に分けて自ら大将とし大阪を出陣しまた。勿論、民部大輔祐兵が先駆けとなり案内したのは言うまでもありません。 それに対して嶋津義久は、拡張していた戦線を纏め、地の利に馴れた南九州で迎え討つべく全軍に退却命令をだす 大分県竹田市、滝廉太郎が名曲荒城の月を作曲したという岡城に、旧大友臣、志賀道輝がおり、 今まで止むなく嶋津に屈伏し、恭順していましたが、今こそ積年の恨みを晴らす時だと島津軍の退路にたちはばかります。 嶋津義珍(忠平)対羽柴秀長の決戦は大友大敗の地、白根坂で始まるが果たして釣野伏せに大鯨が掛かるか?以下は他誌にゆずる。 さてその後、豊後守祐兵は大閣の唐入りに一軍の大将とし渡海して西生浦、安骨浦に転戦します。 その間、秀吉の病に効くという虎の肝を求めて大虎を狩ったと伝えられます。 大閣から宮崎、児湯、諸県、清武に加え球磨八代の一部を拝領しましたが清武を除く全てを返上して、 代わりに飫肥を所望しました、普通はこんな我儘が許される筈もありませんが、それだけ秀吉に信頼されていたのでしょうか。 良くも悪くも人は己の青春期をイメージします、まして祐兵は伊東全盛期に若き城主として飫肥に思春期を過ごしました。 飫肥こそ彼の一所県命の望みであったのでしょう。父が死んで三年忌、伊東氏は飫肥に封じられ、亡き父に対して最高の孝を尽くし供養にしました。 伊東氏は代々飫肥を治め、維新に至り癈藩置県で飫肥県となり、次いで宮崎県に併合されました、飫肥町も油津・酒谷、吾田、東郷、細田、鵜戸、 と併せて日南市となったのです。 顧みれば今は昔、己の噐量と才覚で大敵、嶋津を叩き伏せながら、 同じ己の驕慢がもとで覇者の夢を砕かれ、木崎原に敗走して五百年近くになります、  強者共の夢の跡には名もない草が白い花を付け、或いはその奥に可憐な種を含み巡り来る来世に夢を託しているようです。 飫肥名物のテンプラを買って、伊東家庭園を横に見て緩やかな坂を登り、大手門にさしかかると、桝型井桁造りの石垣が並びます。作家、柳田国男は、 『穴生役(石工)の技芸を尽くしたと思われる石垣の色には、いかなる歴史書よりも透徹された懐古の味が漂う』 と紀行文に記しています。 樹齢数百年の古楠、亞熱帯のへごに覆われた土手。八幡馬場に佇むと遥か戦国の彼方から、甲冑に身を固めた南の覇者、 三位入道義祐昭眼が駒音たかく馳せ参ずる思いにかられます。  【完☆終わり】
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