【南の覇者】Q
義祐大阪浪速に没しする、
秀吉九州征伐を決定、
祐兵道案内役。

  夢の跡 (3)
晴耕雨読、周防山口の旧臣宅に居侯していた老人がその噂を聞いてオトンボ(末子)に逢いたくなったのも無理はありません、 家人がとめるのもきかず、大阪半田村の松寿(阿虎)を尋ねて船に乗りましたかが、老いの身に瀬戸の波風は少々耐え難かったようで、 大阪湾で持病が悪化し、堺の浜に行き倒れてしまいました。 報せを受けて駆けつけた阿竹に引き取られ介抱され、一応危篤は逃れました。 「お竹ー、お竹。近う  、此処に座ってくれ。中島田の戦の頃だった 年甲斐もなく義益の母、阿東の侍女であったおまえに惚れて、そなたの宿所に入り浸り、阿東からは妬まれ、 家臣達の誹謗の中に晴れて室にもしてやれなんだ。五郎が生まれた時も、お家の格式に妨げられ、 阿東が嫌うので先室福園の養子にして、母なるそなたから五郎を奪ってしまった。 辛かったろうな、あたら日向無二の花を日陰に散らせてしもうた。 五郎が元服の時、そなたの名を貰いスケタケとしたのがせめてもの償いであった。 義益が死んだときも、五郎は庶子なので年下の義賢が臣下に甘じさせた。よくぞ耐えてくれやった。 日向を追われてからも、弟、祐長と共に変わらず尽くしてくれた、道後では酒を醸したり、帯を紡んだりしては助けてくれたそうな。  この度も取るものもとらず一番に駆けつけてくれやった。 儂も幸せものよだが今度はどうも駄目らしい。幸い五郎が出世してくれた、それもこれもそなたが側にあり教え培った器量の賜物よ。 阿虎は儂の孫娘で、そなたと儂の悴の嫁だ。これからも二人の相談相手になってくりゃれ。 もう誰にも遠慮は無用ぞ、民部大輔祐兵の大見台として伊東の家を頼む。 そなたも何時までも若くない、食う物は喰ろうて身体を労ってくれ。ほら、白いものが覗いているわ。」 止めどなく溢れ出る涙、咽び泣く阿竹。逝き遅れた老い蝉の声も途切れる晩夏でありました。 堺の浜に倒れてから七日目、若き愛妾の必死の看病も虚しく、阿竹、松寿一族に見守られて三位入道義祐は波瀾の生涯に幕を下ろしました。 天正13年、七十三歳、遺骸は堺、慈光寺に埋められ、後日、雪山和尚の手により飫肥報恩寺に祭葬された。 半田村から北に約六里,上町台地にある石山城では新しく完成した黄金の茶室の落成披露が催されて、四国長宗部、 紀州根来を遠征し終えた将兵が続々と詰め掛けていました。 大納言羽柴秀長、中納言三好秀次を筆頭に、蜂須賀彦右衛門家政、小早川左衛門大夫隆景、吉川駿河守元春、毛利右馬頭輝元、 細川丹後少将忠興、藤堂与右衛門高虎、長岡左衛門尉正則、高山右近大夫長房、錚々(そうそう)たる面々の居並ぶ中で、 秀吉の軍師、黒田勘解由孝高が、伊東民部大輔祐兵を呼び寄せました。 「貴殿の父御は元日向の大守で在られたそうな、ついては横領人、薩摩の嶋津について何かと御存知でござろう?。」 関白秀吉の次なる平定の目は遠く九州に向けられていたのです。 『嶋津を討たんと思う事久し、仙石権兵衛を商人の躰にして、九州の山々浦々の地図を絵に書き、 兵を分かち攻め入らん事を計られける』〓(常山記談)
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