【南の覇者】P
松山での貧困生活、
祐兵を姫路の秀吉に仕官、
  夢の跡 (2)
伊東家と河野家は鎌倉期から縁戚関係がありました、河野道直の夫人は阿虎の母、阿喜多の叔母に当たります。 しかし血縁といっても余りに遠く薄かった。 道後湯月城主道直は、主筋一条家を乗っ取った土佐のコウモリ長宗我部元親に難題をつきつれられ、 片や瀬戸のキ ツネ毛利から水軍の傘下を強いられ、とても義祐などに構う余裕はなかったが、 なんとか越智信孝兄弟の好意で久保田寿松庵に落ち着くことができました。 それからの三年間は貧困底を尽き、祐長の姉、阿竹は自分の着物を解いて木綿の帯を編み、道後湯町に売り歩き義祐一族の生活を支えました。 その頃、播州姫路では羽柴藤吉郎が中国攻めの拠点として、五年の歳月を費やし築城し、ようやく完成する事になっていました。 川崎駿河守の友人に三部快永(雪山和尚)という人がいて奈良大峰山修業の帰リ道、城見物に姫路に立ち寄り、 藤吉郎の馬廻り役、伊東掃部介に義祐主従のことを頼んでいました。 天正十年正月、義祐一行は快永の案内で姫路にきた。掃部介は同族のよしみにより仕官を薦めます。 『入道殿もお目見え宜しからんとありけるに、元来日向の大守にして、代々藤氏の名家たり、その上すでに三品に叙し、 歳も七旬に傾きぬ。例え流浪の身なりといえども、何の面目あって木の下藤吉躰に追従せんや。 但しお家再興の為ならば祐兵は格別なりとて、ついに謁見し給まわず』。〓日向紀 後で記すが嶋津竜伯入道(義久)が秀吉の書を破り捨てて怒ったように、 南の覇者にもそれなりのプライドがあり秀吉など百姓出の成り上がり者としか思えなかったのであろう。 息、六郎五郎祐兵を藤吉郎に仕官させた義祐は、肩の荷 が下りていまは思い残す事も なく一人剽然と旅にでました。 『人生五十年、是非に及ばず』 この年の六月、本能寺において、中部の覇者、尾張のウツケが惟任日向守に討たれて、時代は中世から近世えと移行していきます。 応仁・文明の 大乱に端を発した戦国時代ようやく終息の兆しがみえてきました。 民部大輔伊東祐兵は、山崎、賎ケ岳合戦の功により恩賞として大阪河内丹南町半田村(大阪狭山市)に五百石を扶持されました。
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