【南の覇者】O
義祐が没して三年忌、
妾腹の子祐兵が
父の墓 前に手向けた
供養とは何だったのか
  夢の跡 (1)
筵に木綿を重ねた逆台形の帆が春風を受け、ほまえ船は大きく揺れる。平床の底を打った波はそのまま船縁に飛沫き。 時々波頭が弾け白い泡となり流れ去る。 豊後水道の上げ潮に乗り、北に進む船の中、伊東義祐は昨夜から眠る事もできず、朦朧として感懐に耽っていました。 いろんな事があったなあー、油津港外の海戦、目井津砦の十一本槍、南郷から大島に渡り七ツ八重を経て宮浦まで泳いだ河野長門守、 謹慎の身で敵と競い傷を負い塵取りに乗って帰陣した吉野式部。あの頃が華だった。 三財川で共に魚を追いし幼なじみの新六祐基、黄金造りの愛刀を銭に替えてこの舟代を都合しながら涙ながらに同伴を辞した落合兼家。 木崎原では多くの友臣を亡くした、正直一徹の加賀守祐安、切れ者米良筑後守、向こう見ずの源左衛門兼仲、 末ある若き衆新次郎又次郎源四郎、顔また顔が走馬燈のように脳裏をよぎる。 日向を落ちそびれ鹿児島にひかれたという木脇祐守は今いかに、ぼやき屋弾正忠久徹も、気弱わな大炊介祐審も、 碁仇の福井和泉守祐呑もみんな逝ってしまった。 剽軽者長倉祐政、口煩い髭の落合昌音、いざ打ち首のみぎり未練にも泣き喚めいたという槍使い飯田肥前守にももう逢う事はできない。 それなのに張本なる儂のみがこうして生きながらえておる、申しわけない、許してくれ。 重職に在りながら日向を裏切った福永も野村も今は恨みはせぬが、再起を期した耳川で又もや又四郎にしてやられ、 臼杵で恩有る宗天殿が戦死されてからは、佞臣田原紹忍奴に「日向の厄介者よ殻潰しよ」と蔑すまされ、 その上色狂い宗麟に悴の嫁を狙われるとは、あーあ、人間落ち目にはなりたくないものかな。
白鳥は哀しからずや空の碧海の碧にも染まず漂う。(牧水)
海鳥の戯れる彼方に九州の山々が遠ざかる、さらば故郷よ、又の来る日の有るや無しや。 天正七年春、義祐三男祐兵夫人、阿虎(松寿)十五歳、美人というには未だ幼いが清純可憐な容貌に、宗麟息義統が横恋慕しました。 『義祐父子を亡き者にすべし』 との噂がきこえ、川崎駿河守祐長の機転で無事脱出して、主従二十余人伊予松山の河野氏を頼り船に乗ったのです。 余談でありますが、この時、義祐次男、故義益夫人阿喜多と二人の息、義賢と祐勝、同じく四女、町上(祐青夫人)は大分に残り、 耶蘇教の洗礼をうけて、後日、祐勝は安土のセミナリオで信長に遇い洋楽を演奏して見せる。 又、町上の息、祐益は天正少年使節の団長として渡欧して、ローマ法王グレゴリオ十三世、シキスト五世に謁見しました、 時の市民権贈呈紹介のラテン語文を訳して 『豊後王(宗麟)の使者、都於郡王(祐青)の息、日向王(義祐)の外孫、伊東修理亮満所君』 奇しくもこの年、一五八五年に日向王は泉州堺で没する事になりますがそは後述します。
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