【南の覇者】N
奢れる人も久しからず
今に至る義祐の諸行は
春の夢だったのか、
或いは偏に風前の塵?

鳴呼、山河 (4)
宮崎県児湯郡高鍋町を流れる小丸川を遡ると切原川と分岐しますが,その三角州の奥に高城があります。 急を聞き嶋津中務少輔家久(貴久四男)鎌田尾張守政近、日置周防介忠充が応援にきました。 時を同じくして長倉勘解由左衛門祐政山田二郎三郎匡徳が旧伊東臣に檄を飛ばし蜂起させ、 都於郡城の奪回を図りましたが、折生迫(宮崎市)に上陸するはずの挟撃隊に手違いがあり、北郷左衛門太夫時久のために鎮圧されてしまいました。 高城を囲んだ豊後勢は水攻め、火攻め、城の裏山の高台から大木を落とすなどして果敢に攻めますが、守りは固く一箇月あまりが過ぎてしまいました。 十二月二十五日、嶋津大守義久は、全軍を率いて鹿児島を発ち、途中霧島神社に戦勝祈願をして、 明けて正月十日財部(高鍋町)に兵庫守忠平、図書介忠長(尚政の遺児)右馬頭征久(以久〓政久の養子) 左金歳久(貴久の三男)伊集院忠棟(忠朗の孫)等と会して軍議をひらいた。 薩摩の大軍に対して、豊後勢は高城の囲みを解いて切原川の北カンカン原(宗麟原)集合し、佐伯紀伊守宗天を下流松山に左先駆けとし、 田北相模守鎭周は上流勝坂の右先陣、中央後方で田原紹忍が総指揮をとり、臼杵少輔統景、吉岡掃部助鑑興、吉弘左大夫鑑宣等、 車懸かりに配しました。 一方、小丸川の南、目白坂(根白坂)には義久が本陣を構えて、本田因幡守親治、北郷藏人忠盛を先駆けとし 右翼に右馬頭征久、伊集院忠棟、左翼に図書介忠長、左金歳久、梁瀬口で忠平が全軍の指揮をとる鶴翼の陣を敷いています。 12日豊後方、田北鎭周が先制攻撃をしかけ、長倉祐政、米良四郎が真先に、次いで< 佐伯宗天が川を渡り嶋津方本田、 北郷を蹴散らして、その勢いで義久の本陣に迫りました。 その時、忠平の合図で両サイドから鉄砲が一斉に火をふき、高城の家久、有信、政近達が豊後勢を包む様に突撃してきました。 面食らった大友方は惨々に敗れて北方に逃れようとするが、忠平、義久の本隊が追撃し、美々津耳川でとどめを 刺しました。 是により、大友方の鎮周、統景、宗天のほか、伊東下総守祐基、同三河守祐運、長倉勘解由、米良四郎、右松左衛門等戦死者かずしれず、 小丸から耳川に至る約七里の間、四千余の死骸を残して大友軍は壊滅してしまいました。 宗麟入道は宣教師も見捨てて十四日には臼杵に逃げ帰ったといいます。 十八日、三納地区(西都市)で佐土原摂津守が戦死、飯田肥前守が捕らえられました。 宗麟原(川南古墳)に 供養塔がある、風化して読み難い碑文に目を凝らすと、 『迷うが故に三界の城、悟るが故に十方の空、本来東西なし、 いずこにか南北の在らんや』 と読めます。 今尚、尾鈴の山は、深緑静鎮して動かず、小丸の川は蕩々として紺碧の日向灘に注ぐ。  誰ぞ曰ん、『国敗れて、山河在り』と。 
夢の跡