【南の覇者M】
奢れる人も久しからず
今に至る義祐の諸行は
春の夢だったのか、
或いは偏に風前の塵?
鳴呼、山河 (3)
天綬三年來百五十年に及ぶ嶋津氏との確執もここに終わり、今は義祐の威光も地に落ち、それ以後は相次ぐ内紛、離反などで、 天正五年、縁戚の豊後大友氏を頼り、住み慣れた日向を後にしました。 切支丹大名大友義鎭は、二十年来、伴天連を保護し、教会を建てたり、フロイスを招き布教活動を支援してきましたが、 当人はそれほど信仰に熱心ではなく、むしろ彼らがもたらす異国の珍品、殊に鉄砲が目的ではなかったかと思います、 その証拠に仏教上の出家をして宗麟入道と名乗ったり、奈多八幡の宮司の娘を娶りその兄、田原紹忍を家老としていました。 ある日、レジデンシアで知ったシスタージュリアを見初めてから、親譲りの女狂いがはじまりました。 顔を合わすと苦言を並べる本妻や身内、重臣達。やれ竜造寺とか毛利とか、耳にたこができ、毎日がうるさくてなりません。 いっそ可愛いジユリア(次男の妻の母)と駆け落ちでもしようかと思っていた所に、 日向から土佐の一条家に嫁いでいた妹の娘、阿喜多が義父義祐一族を連れて頼ってきました。 又、今年の始めに嶋津に寝返った土持親成を成敗しましたが、その時の約束で、今は息弥七を鹿児島に出し、 表向きは嶋津に恭順している米良四郎右衛門からしきりに嶋津征伐の催促がきます。意を決した義鎮は 。
『嶋津義久を討ち、伊東昭眼に旧領を復せしめん』〓(大友家文書録)
『デウスの御名と栄光の為、土持の地に住居を構えて、キリシタン王国を建設し、老休せん』〓(フロイス日本書簡) ここにきて義鎮は、カブラル神父から邪蘇の洗礼を受け、ドン・フランシスと号して、本妻に離縁を申し渡しジユリアをつれて、 前代見聞の駆け落ちをします、
天正六年(1578)9月4日、4万の大軍を三手に分け臼杵を出発した大友軍、大義は聖戦であり、十字軍遠征であります。 自分を誹謗する家臣達に示しを付けるため、先代からの守護神柞原八幡神社に鉄砲を放ち、御神体に矢を射かけました。 金覆輪の白緞子、陣羽織にクルスを掛けて、150の親衛隊は皆クリスチヤン、銀色の十字架を描いた正方形の旗を押し立て、 途中、目につく寺社を焼きはらい、仏像を泥濘に敷きながら、九日には県・弁志賀(延岡市無鹿)に到着しました。 ここを本拠にして、田原紹忍に嶋津方山田新助有信の守る新納院高城を攻めさせ、自分は専ら住宅、教会の建設に付ききりでした。
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