【南の覇者】L
奢れる人も久しからず
今に至る義祐の諸行は
春の夢だったのか、
或いは偏に風前の塵?
鳴呼、山河 (2)

韓国岳の斜面にミヤマキリシマが咲き乱れ、揺らぐ湯煙、硫黄の匂い嶋津方も人数が増えたがまだ敵に比べると五分の一に足りません、 衆寡敵せずと傍観しているところに忠平が来て憤ります、忠平は、駒に一鞭すると単騎伊東陣に切り込みました。 それを見た落合源左衛門が走る、
「良き獲物見参なり、こやつの首は俺が貰った!」 主君の一大事と忠平の旗本、遠矢良賢達が割って入り対抗、忠平を庇い華々しく討ち死にしました。 後年、関が原で西軍に参加した義弘が退路を失い徳川本陣目掛け敵中突破を断行し、 真田幸村が『あっぱれ日の本一の勇将かな』と賞賛したといいますが、むてっつぽうなところも忠平の性格の一面だったと思えます。 幸村も大阪陣で徳川の本陣茶臼山に斬りこみ、それを真似たのは有名です。 五百メートルほど押された忠平はもはやこれまでと覚悟したとき、栗野の鎌田尾張守政近、吉松の新納武蔵守忠元が来援して、 伊東軍の腹背を攻め、忠平は九死に一生を得たことになります。逆に伊東方にとっては、チャンスを逃すとピンチになり戦況は一変します。 現在この地に義弘腰掛けの石なる物が残っています。
捲土重来! 嶋津方は反撃に転じ、伊東方は総崩れとなり、三角田、粥餅田方面へと退却を始めます。 加賀守祐安は坂の途中で惣軍を纏めていましたが、息祐次の姿が見えません、敵陣に取り残されたと知ると、 從者持原兄弟のとめるを振り切り取って返すことになります。 鹿児島に伝わる薩摩琵琶の一節には、
『吾こそは伊東加賀守祐安と申す者なり、我と思わん者あればいざかかれと呼張りけり。 嶋津方にも元北原の郎党にして渋谷上総守国重なり 〔日頃方々音にも聞きつらん〕というままに、 互いに打ち物持って追いつ追われつ、火花を散らして戦いける、未だ勝負も見えざるに、 国重打ち物投げ捨てて〔いざ組まん〕と駆け寄るを、祐安ともに打ち物捨ててむずと組む。国重危うく見えければ、 郎党二人〔主を討たれては叶うまじ〕弓手女手むずと取り、上を下へと返しけり。祐安もともと大力なれば二人の者どもの肘を持ち、 ここ彼方へとかっ飛ばす、再び国重を取り押さえ首を掻かんとするところ、国重の弟、軍八国直〔兄を討たれては叶うまじ〕 祐安の草摺りを畳みあげ、柄も拳も透れ透れと三刀刺して・・・』
多少の誇張はありますが祐安が四人を相手に奮闘した様子が伺えます。 内山衆、柚木崎丹後守正家は敗走する伊東軍の殿りを努めていましたが、 鬼塚辺りで後を振り返って見ると一人だけ飛び出して追って来る武者がいます、矢をつがえ狙いをつけたところその武者は、
「吾こそは嶋津兵庫守忠平なり、下郎推参!」 と一喝しました。以下嶋津藩旧伝集には。
『維新様(義弘)飯野在城の時、伊東家と一戦遊ばされ侯、この時鬼塚に於いて柚木崎丹後こと、御威光に恐れてひき設け侯。 弓を捨て、子孫の儀、頼み奉り侯旨申しあげ合掌仕り侯。即ち手づから御討ち遊ばされ候(中略)維新公一代のすぐれたる武勇なり云々』
と褒めています。 仮にも一国の大将たる忠平が丸腰で平服しているものを討ったとて恥こそなれ手柄になる筈もありませんが、 これまでの忠平には他の兄弟と比べて、これといって自慢できる武功がありませんでした。 例えば天文二十年の岩剣の初陣で危ういところを父に救われ、翌、弘治元年には中島田で重臣のすべてを戦死させ、 永禄五年、義父の留守に城を敵に渡す羽目になり、同九年に三ツ山で伊東軍と戦い負傷し、 同じ年、菱刈の大口城をせめては相良軍に敗れて敗走している相良文書によると。
『義弘、遠矢下総守とともに兵を率いて退く、豊永大蔵追撃して永野甚右衛門を斬る、義弘顧みずして去る』
この様に功に飢えていた彼は無抵抗にひれ伏している正家まで殺した。さすがに後あじが悪かったのであろう、後にその地に六地蔵をたて『生涯水を手向ける』と言ったり、柚木崎の遺族を探しては録をあたえ、そればかりか子孫まで永代面倒をみると約束している。 壱岐球帝という役者が伊東方に居り、気付いた時には敵に囲まれていた、えびらから矢をとりだし地面の四方に突き立てて、 「舞台の中に立ち入るべからず」といって狂言の一指を演じて華麗な最後を飾ったといいます。 新次郎祐信は、忠平めがけ槍を突き出しましたが、忠平の馬は咄嗟に膝をかがめてそれを避けました。 その馬は膝突き栗毛と呼ばれ、大事にされ八十歳(人年に変換?)まで生きたといいます。 戦いは延べ十時間に及び、伊東軍は伊東加賀守、落合源左衛門、米良筑後守等歴戦の勇将多数を含む五百余が戦死し大敗、 また嶋津方も参戦者の半数二百五十を失う激戦であったと伝えられています。 義祐と約束していた球磨の相良義陽は、諏訪山の頂上八幡峠まで来て、眼下に並ぶ十字の旗をみて鹿児島の大軍がきていると恐れ、 一矢も交えず球磨に帰ったといいます。
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