【南の覇者】K
奢れる人も久しからず
今に至る義祐の諸行は
春の夢だったのか、
或いは偏に風前の塵?
鳴呼、山河 (1)
子は宝といいます。その器量の如何は一族の将来の浮沈に影響してきます。 親は自分の出来なかった夢を子に託し、器に余る教育を強いるものです。 身分不相応の重荷を背負わされた子は社会不審を抱き車を暴走させたり、シンナーを嗅いだり、非行に走ることになります。 最近はインターネットが普及していますが、その中にもそのような教育の犠牲者は見られます。 彼らはネットで悪意により、他人の言動の批判をしたり、誹謗中傷を繰り返し、それがあたかも社会正義であるかのように振る舞います。
さて、山東(日向の東大半)を征した義祐は、今は亡き兄の祐充の地盤であった真幸の回復を図る事になります。 永禄十二年、戦勝祈願の途中伊東の頭首義益が不慮の変死を遂げ、わずか三歳の義賢が跡を継ぎました。 一方、島津家では貴久の息、四兄弟がいずれ劣らぬ武将に成長していました。 その頃、鹿児島湾に、肝属兼続の2男、 兼亮が熊野水軍の援助を受けて百隻の船団で義久を攻めていました。 肝属氏は南北朝のころ宮方の先鋒を勤め、紀伊熊野の水軍とは親しい関係にあります。 折しも前大守、伯囿斉貴久が没し、ついで元飫肥 城主忠親が病死した度重なる 嶋津家の厄亊を義祐は見逃さず、 球磨の相良義陽と謀って真幸に侵攻を開始したのです。 飯野城(えびの市)には嶋津忠平が居城し、その西方 には覚頭砦(加久藤)を築き、川上三河守忠智を忠平夫人、 広瀬氏の補佐として守らせていました。
元亀三年(1572)5月4日、義祐は挟撃される懸念を除くため、 先ず、覚頭から潰す事にきめ、伊東加賀守祐安以下3千人を三ツ山(小林市)を出発させ、明現の尾に陣をとり、 伊東新次郎祐信(祐染息)同源四郎祐次(祐安息)同修理亮祐青等、若者たちを覚頭に向わせます。 襲撃隊は、満天の星空に黒く眠る飯野城を横に見上げ、馬が鳴き声をあげないように、馬の口に牧を含めて上江村を過ぎ、 取越峠から覚頭裏、鉤掛け森に忍び、夜明けを待って民家に放火しながら突撃しました。 昨夜遅くまで酒を飲んで熟睡していた忠平は、家臣に起こされて西空を赤く染める火の手を見ます、 妻子の安否が気にかかる、直ちに遠矢下総守良賢を先発させ 、有川雅楽介貞直に留守を命じ、 吉松、栗野、大口に急を 告げる狼煙をあげさせ、自らも手勢を引き連れ大明寺二八坂に向います。 途中、五代勝衛門友慶を白鳥山の麓の民家に待機させ、村尾源左衛門重侯を伊東軍退路に当たる横尾口から木塚原に穴を堀り伏せさせた。 嶋津戦法”釣野伏せ”です。また、ボロを集めて案山子を作らせ、晒に十字を墨書きした旗を各所に立てさせました。 伊東軍侵入口に樺山浄慶の屋敷があり、城の外郭を兼ねていましたが、伊東方はそれを本塁と見誤り、樺山父子を討ち取ると勝鬨を上げて、 川内川対岸の池島河原まで引き上げました。どの兵も手柄話に余念がありません。 南国五月梅雨の晴れ間、湿気を含んで蒸し暑く兜や鎧の下は汗びっしょり下着が粘りつきます。 若い兵たちはたまらず川の中に飛び込んだものです。
そこへ三徳院の盲僧、菊市坊が通り掛かり、
「勝つて兜の緒を締めよ」
とニヤリ、
若い兵達は、
「何のガンタレ(卑下する方言)どもには竹竿一本あればよいわ」
と鼻にもかけません。
明治十年、西南の役で薩軍が肥後熊本城を攻めた時、西郷の片腕、桐野俊秋が、 『銀杏城など青竹一本で落とせる』 と豪語しながらその攻略に手間取り”政府に物申す時期”を逸して田原坂に敗退しました。 水泳中の伊東兵に覚頭残兵と遠矢軍が襲いかかったが、運良く祐安の本隊が駆けつけ一蹴しました。 しかし、伊東方にも米良筑後守など負傷者が出て、一旦退却することになり、白鳥山高原村の方に移動します、 ところが白鳥権現の光厳僧が土民を集めて奇声を上げ、五代軍のゲリラ攻めを喰います。 迂回して南木塚に廻ると林の中に無数の白装束がいる。やむなく木崎原に集合して隊の立て直しをはかることにします。
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