【南の覇者】J
伊東義祐、執念の決算!
南日本の覇権をめぐり
意地と根性の総攻撃

芋柄木刀(3)
二万の大軍は飫肥盆地を埋め尽くし、その上肝属からの援軍も加り、それ以来、連日持ち楯を鳴らし、昼夜の隔てなく弓鉄砲を撃ち掛け、 法螺鉦太鼓を鳴らす、しかし、飫肥城は名城で攻め入る事は難しい。 伊東下総守祐基は兵2百を率いて搦手長吉口から挑発しました、長柄の熊手で城門を崩そうとすると、敵も突然門を開いて打って出てきます。
この小競り合いで双方数十人が負傷、伊東方落合右衞門太夫兼永は、敵城中に取り残され捕まり、いざ打ち首となった時、
「暫く待ち召されよ、お手前達の鈍刀では切り難かろう、今喉輪を取って進ずる」といって敵方を感嘆させた。
日置忠充が城内を点検したところ、当月分の食料が不足していることに気付きました。 このままでは飢え死するのは目に見えている、さりとて補給を頼むにも翼のある鳥ならいざしらずどうにもならない。 忍びの心得がある山伏に命じて荘内(都城)の北郷時久(忠親の父)のもとに使者をたてました。
『今度,弓鉄砲の事欠く儀には候わず、ただただ兵糧が尽きて月をも越し難く侯。 このまま御出勢をひき延ばしあらば、周防一人が切腹し諸士の生命に代わり、本城を敵に渡すべく侯』=日向記。
時久は父の危難を救うため、嶋津宮内少輔に三河守と名を与え先発させ、自らも六千人を連れて酒谷城に来援しました、
そして先だって伊東方が予想したように阿田越えで兵糧の引渡しを企てますが。
以下日向記(落合兼朝=永禄年間)から引用します。
『北郷図書助、数多くの談合を以て、同二月二十一日早朝、北郷、豊州合わせて一万三千の多勢をなし、 阿田越えに差し掛かり荷ごもりする。伊東方の諸将評議を整え本城の人数を抑え置き、木脇越前守祐守、 落合源左衛門兼仲両将早くも小越えに指し向かう、打ち続く大将には伊東加賀守祐安、同相模守祐染、同修理亮祐青、同大炊介祐審、 同弾正忠久微同下総新六祐基その他旗一面に指し並べて、我も我もと追い連なる。 木脇越前の旗竿が阿田越えに据わりければ、かねて定め置きし鉄砲を撃たせて、雲霞の如く打ちかかれば、北郷豊州方も命惜しまず、 真丸になって突きかかる。数度の競り合い更に勝負もなかりせば、互いに此処を先途と入れ代わり、立ち代わり、輿を双せ、 馬上に槍をもち、太刀を真甲に翳して進みかかる。 北郷方より嶋津三河と名乗るところに伊東方からも落合源左衛門尉と名乗り互いに槍を合わせられけれども鎧の上にて身にも徹らず 、綿噛みをとりて三河守を組伏せ首を落とさる =中略 山田二郎三郎匡徳は、勝岡城主和田民部少輔政郷を討ち取り名乗りけるに、

「己に父、備後守を討たれしがほどなくしてその仇、和田民部をうちけるぞ、人々これを見給え」と呼張りける』(後略)
和田民部の息も、長倉次郎介の槍にかかり、他にも嶋津方の戦死者は北郷図書助忠稔、戝部権守盛稔、本田親里、土持頼綱、
酒谷城主柏原常槃守など将クラス60を含み八百を越えました。
俗に嘘八百と言います、日向記に限らず昔の戦記物に頻繁にでる数字です。
伊東方も落合又三郎、弓削吉次兄弟、松岡孝太郎等失ったが、敵に比べて被害は軽く、 勝ちに乗じて逃げる薩軍を酒谷城下桜の馬場まで追った、しかし“窮鼠猫を噛む”の例えもあり、深追いはやめて本陣に凱旋した。
頼みの食糧を奪われた飫肥方は、”ヒダリシ(おなかがすく)ヨダキシ (億劫だ)オヨバン(軍する気になれぬ)と ひたすら城に籠もりきり、それでもなかなか降伏はしません、 良く調べて見ると細砂礫から鍵浦を経て荘内に往来しているようです、
義祐は鹿柴をつなぎ結び獣もとおらぬように監視させ五月に入って酒谷城に攻勢をかけさせました。
折しも忠親は病におかされ医者に診せることもできません。 見兼ねた嶋津本家義久は、北郷紀伊守忠徳を真幸須木の番代米良筑後守のところに行かせて霧島山麓に会して和を講じました
約半年の攻防の末ついに飫肥は無条件降伏した、忠親父子は都城に去り、飫肥は伊東、福島は肝属が領する事となりました。
天文10年、宮崎を発し南に道をとってから28年、30余回の熾烈な闘争の果てに、
薩摩の屁ひり兵児を南那珂地区より駆逐した南の覇者三位入道義祐は、次男右京大夫義益に守護を譲り、都於郡城に隠居、 城の七つの門にはそれぞれ一千人の守兵が配されたといいます。 城の下を一の瀬川支流、三財川がながれていますが、川面に写る白壁に驚いた鮎が其以上遡上しなかったという話しがあります、 浮舟城とよばれる所以です。
飫肥城には三男六郎五郎祐兵が入城しました、家老として相模守祐染を今城に、執事とし木脇越前守を松尾丸に詰めさせ、 他にも佐土原祐賀、稲津重恒、長倉監物、野村剣介達に地領を付し、祐兵の介添えとして常註させました。 日向一円四十八城に名将達を綺羅星のように並べて、義祐自身は佐土原に居て、天主に金銀珊瑚を散りばめ、 町人からは金箔公とよばれ、京に準え町名も祇園愛后とつけ、十文字五条に居住をかまえ、語るも京訛りを用いたそうです、
彼が著したという”飫肥紀行”にも『扇子で入る日を返すが如く』というように朝廷から從三位を叙され、三位入道と号し、 奈良から仏師を呼んで大仏堂を建て慮舍那仏像を安置するかと思えば、 京の金閣寺を真似てか照珪山金箔寺をつくり大鐘を寄進しその鐘には、
『日薩隅三州大守前惣持永平直翁昭眼大和尚藤原義祐朝臣云々』と銘をいれました。
今は、薩摩のイモガラボクトもすっかり鉾を収め、南日本に楯衝く輩の影もなく、覇者の威光は燦然と義祐のもとに輝いています。
 11月の日曜日、飫肥城祭り、白壁杉板造りの城下町を見物途中、銅像を見つけた。 「義祐さんですか?」。
「バーカ!こん人も知らんでなんが歴史屋か」
彼が自慢げに説明するには、日露大戦の講和をポーツマスで締結させた時の外相、小村寿太郎の生誕地との事です。    
嗚呼、山河