【南の覇者】I
伊東義祐、執念の決算!
南日本の覇権をめぐり
意地と根性の総攻撃

 芋柄木刀(2)
永禄十年(1567)暮れ近く肝属良兼(省釣息)の使者、根占九郎左衛門が佐土原の伊東義祐を訪ねて来ました。 
「今、菱刈、相良とともに薩摩を攻めて居るが伊東殿からも飫肥か真幸のいずれかに圧力をかけて下され」
義祐は野尻から帰り重臣を集めました。
「以上のような事ゆえ皆思うことを遠慮なく申してみよ」
しばらくは皆押し黙って居ましたが、落合若狭守兼朝が口を開きました。
「誰もものいわずでは始まらぬ、それがしは今まで真幸勤めでござったが、飫肥は山水に富み、良き舟泊まりもござる。
それに先代祐国公が無念の地でもござればまずは飫肥に懸かるべきとぞんずる」
伊東相模守が頷く、次いで伊東大炊介が。
「真幸は都於郡の横腹に当たり、常に脅威になりもうす、先ず真幸を制するが先決と思うが、 いずれにせよ殿が先頭に立って精をお出しくだされずばなるまい」
最近の義祐は、仏事や連歌に凝り政事を怠りがちで、家臣の間に不満の声が聞かれていた
「なんぞ申すか、その方は二十日番の陣替えを大儀と申し、そのくせ鶉狩りなどしておったと聞く、若いものが先にたってこそ何事もなるものぞ」
「つまらぬ事でいさかっている時ではござらぬ」
と伊東弾正忠が言えば、すかさず義祐は、
「そちも儂の前ではもっともらしい口をきくが陰に回りいろいろ申しているそうな、ものごとは陰ひなたなく申すが肝要ぞ」
虫の居所が悪い。伊東三河守が、
「若輩の身で失礼つかまつるが日置周防は大恩あるを仇にして、我等が同胞を殺生し仕った、このままでは示しがつき申さぬ」
「ならば飫肥ときめて陣立はいずこが良いか」
と若狭守がいえば,義祐は、
「楠原がよかろう、先に日置奴も楠原からせめよった」。
「酒谷を攻めるには楠原でもよいが、相手は本城なれば篠ケ嶺の辺りが良いのではないか」
と相模守祐染。
「いや、楠原だ、楠原に限る」。義祐は頑固だ。加賀守祐安が、
「飫肥を攻めれば敵は酒谷から阿田越えにて兵糧を運ぶのが今までの習でござる、それを楠原から攻めるには川を越えねばなり申さぬ、 ここは相州殿の申されるように篠ケ嶺のほうが勝りまする」
明けて永禄11年戊辰正月、松の内が過ぎた九日、三位入道義祐は2万の大軍を宮崎に集結させ、
今度こそは飫肥を切り取るべしと隊を二分し、日南海岸沿いと山仮屋街道を南下、翌日には水の尾、11日には鬼ケ城に合流しました。 伊東祐基を総大将として一万人、小越えの南、篠ケ嶺に本陣を構え、相州祐染以下3千8百 、城の南新山に、 城の北、乱 杭野に川崎祐並以下3千名搦手攻めとし、城の東、中の尾に加州祐安麾下2千8百の精鋭を遊撃隊としました。
ここで数的真偽を詮索すると歴史にロマンが褪せますが、因みに現在の飫肥地区の人口は老若男女合わせても一万人に満ちません。
飫肥城は周囲三`弱、面積二百ヘクタール、本丸、松尾丸、中の丸、西の丸、宮藪、今城、小城、北の城など十余個の建築物よりなり、
北側は小松、男鈴の鰐塚山地を背にして、南に大手門、東に二重城戸、東北に後宮門を設けて、八幡馬場、不動馬場、犬馬場を包括し、
その外側には深さ約二十mの空濠を堀り、尚その外に追手口、十文字口、常真口、谷の口、
長吉口の五冠門で囲み上級武士の住居となっていました。
又西側には酒谷川の急流が直角にぶつかり、その浸食で天然の要害を形成し、
川は南に流れ愛后の山腹に遮られ東に北に蛇行、丁度城を包み込み様に外堀の役をなしています。
(現在は日南市が江戸期の資料を基に松尾丸、大手門を復元している)
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