【南の覇者】@

薩摩の強豪島津氏に
男一匹伊東義祐が、
生涯を賭けた確執とは

南への道(1)
土豪対守護の領地をめぐる、一所懸命の争いは、室町幕府の衰退とともに、戦国乱世に突入しました。
ここ、南九州、霧島の噴煙がたな引く真幸(まゆき)地方は、宮崎、鹿児島、熊本の県境にあって、昔は北原氏が領していましたが、日向の都於郡(西都市)の伊東氏、 島津一族北郷(ほんごう)氏に加え、球磨(くま)人吉の相良(あいら)氏等が、入り乱れての争奪戦を、繰り返していました。
天文初年(1532)、北原貴兼(たかかね)と北郷忠相(ただとも)は、連合して伊東方の三俣(みつまた)八城を攻め落としました。 その頃伊東方では、頭首祐充が若くして亡くなり、家中に不穏の動きがあって、二人の弟である、六郎祐清と十郎祐吉は、難をさけて日知屋浜に逃れていましたが、
重臣達の協力のもとに、どうにか内乱を治めましたが、しかし、それもつかの間、今度は長峰(宮崎)の地頭長倉能登守にそそのかされた弟の祐吉が、守護を宣言すると、 祐清は自ら、頭をまるめて可水(かすい)と名前を変えて、富田郷(佐土原)に万歳軒を庵じました。
『祐清おおいに恐れ・・・』、と史書にありますが、彼の半生を見る限り、彼が弟を恐れて出家するほど小心者であったとは思えません。  その証拠に3年後、祐吉が急死すると、祐清は直ちに還俗(げんぞく)して、将軍から偏諱(いみな・義の一字)をたまわり、義祐(よしすけ)と改名して、宮崎の長倉兄弟を討ち、政権を掌握しました。 この事件で飫肥(日南市)の島津忠広が、長倉方を応援しましたので、以後長期にわたって、飫肥の攻防戦が始まるのです。
伊東氏は、曽我(そが)兄弟の仇討ちで有名な、工藤祐経(くどうすけつね)の子孫で、昔は伊豆地方の木工職でありましたが、 源頼朝から日向守護を任じられ、1349年この日向地方に着任しました。文明の乱に伊東祐国(義祐の祖父)がはじめて飫肥を攻め、義祐に引継ぎ80年に及ぶ攻防を繰り返すのです。 名もない小城一つをめぐって、半世紀にもおよぶ攻防戦は、他のいかなる戦史を探しても例をみません。 
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